2009年08月31日
作文・応募作品 「おじさんと家内と薬と」 鈴田浩二 (神奈川県・66歳)
効能のある薬ほどその副作用が強い、このことを私に教えてくれたのは、農繁期になると母が手伝いに行っていた農家の次男のおじさんだった。大正初期の生まれだが小児マヒで、下半身が不自由な人だった。正座を崩した女座りの状態で両足が固着してしまっていた。立つことも歩行も叶わない。しかし、このおじさんはすごかった。やや厚手の布で作った座布団にちょこなんと座り、これも不自由な手で座布団の端を持ち上げるようにして、自在にいざることができた。飼育していた兎や鶏、山羊や豚の世話はすべて座布団移動でやっていた。
おじさんが肝機能に異常が見つかって薬を常用するようになったのは、40代になってからだったが、日ごとに衰えるのが子供の私にも分かった。自身で移動ができなくなってからも読書欲は旺盛で博識な人だった。
「坊、薬はな服まないのが一番だ。毎日の暮らしが変わってしまうこともあるし、まちがった服み方をすれば死んでしまうこともある。誰だって今日も明日も元気でいたいから、医者が出す薬を服むんだ。同じ薬を服んでも良くなる人と悪くなってしまう人がいる。医者でも分からない、服んでみないとな。毒のようなものだ。いま、おれが服んでる薬、これはダメだな。医者を全部信用しちゃいけない、自分も医者になるんだ、わかるか」
昭和20年代後半の頃、私は中学生だった。
おじさんは病院へ一人で行けない。戸主である兄のおじさんが自転車のうしろへリヤカーを連結して、4キロある病院まで連れて行った。この時嫂も同行する。登り坂でリヤカーを押すためだ。こうした状況だったからおじさんは、さらに3キロ先、登り坂が2つもあるもうひとつの病院へ連れて行って欲しいとは言えなかったのだ。家庭医学書をむさぼるように読んでいたおじさんは、自分の余命を知っていたのかもしれない。誰にも吐きだすことのできない胸の内を私に語ったのだ。
患ってからおじさんは2年足らずで他界した。人間が死ぬことを初めて教えられた私。あり合わせの材料で作られた棺におさまったおじさんの耳に、数本の黒い毛が生えていたのが印象に残っている。
昭和43年に私は所帯を持った。仕事の関係で大阪で暮らしている時に知り合った家内は、リウマチを患っていた。尿酸塩の結晶が関節内に沈殿して発症するという因果関係が分かっている程度で、どうやって症状を改善するか、といった特効薬も治療法も確立されていなかった。まさに手さぐり状態であった。
温泉治療や評判がいい医師や病院があると聞けば、遠方でも足を運んだが徒労だった。一年間で2、3回の入院を余儀なくされた。症状の進行を遅らせるステロイド剤が常用薬となった家内。その薬の副作用を防止するために併服する薬もあって、毎食後、おやつ替わりのように色とりどりの錠剤を服用した。
私がうかつだった。家内が妊った。
私自身は薬を必要とすることがなく生きてきた。私は薬に免疫がなかった。家内に堕胎するように話した。副作用を危惧したからだ。
「そんなこと言ってたら一生子供を産めないじゃないの。先生は100%とは言えないが大丈夫でしょう、って言ってるわ、産ませてよ」
自己愛性人格障害、私はこのきわめつけだった。臆病者でもあった。家内を説得しつづけた私。子供はこの世に生まれてくることを阻まれた。女の性(さが)とでもいうのであろうか、40年が過ぎた今でも、あの子を産んでいれば、という言葉を何度も聞かされた。その思いは私とて同じだが、いつの時でも聞き流した。
腹痛でも頭痛でも、腫れものでも切り傷でも私が与えられた薬は、ふんだんに自生していたどくだみ草を母が煎じたり手もみしたものだけ、それでこと足りたほど野性児であった。母から授かったものなのだが。でも、大好きだったおじさんの命を縮めたのは、薬であるという固定観念も私の中で生きている。健康であったことが私を増長させたとも言える。薬が嫌いな私、薬を信じきった家内、これも一つの夫婦の形であろう
「胸の痛みに効く薬はない。おれには兄貴とねえさんが特効薬だった」おじさんが晩年に話してくれた言葉だが、私は忘れない。
横浜の風土が合ったのだろうか、家内はリウマチの業病から開放された。代用として喘息、血圧降下剤それに伴った胃薬、家内の食後のおやつは相も変わらずだ。
先頃、家内の病院に同行した。処方箋を私が薬局に持参した。よせばいいのに私は「こんなに薬を服んで薬が喧嘩しないんですか」と問うた。実年齢より若く見える紅をきりりと塗った50代の薬剤師は「犬科、猿科は私どもがチェックしておりますから大丈夫です」だって。ユーモアか皮肉かは分からない。


