大学医学部探訪
第1回 慶應義塾大学医学部

 




 

福澤諭吉先生、北里柴三郎先生の遺志継ぎ、社会の「先導者」を続々と輩出

 

(写真)慶應義塾大学病院・慶應義塾大学医学部
 


高見 博 
帝京大学医学部外科
名誉教授
プロフィール詳細


北川雄光
慶應義塾常任理事
外科学教授
プロフィール詳細

 

お札の肖像が福澤諭吉先生から北里柴三郎先生へとバトンタッチ

 
高見:お札の話から始めましょうか。2024年に、お札の顔(肖像)が変わります。1万円札の福澤諭吉先生は「退官」されて渋沢栄一翁に。5000円札には津田梅子先生、1000円札には北里柴三郎先生の肖像が印刷されることになりました。北里先生は日本の近代医学の基礎を築いた巨人で、ノーベル賞候補にも推されました。実は初代の慶應義塾大学医学部長・病院長でもあり、私たちに、たいへんに関係の深い先生です。
 

 
 
北川:福澤先生は北里先生が苦境にあったときに支援されたこともあって、福澤先生没後、北里先生は慶應義塾大学医学部と病院を立ち上げてくださった。その縁を大事にしようと、2022年11月、慶應義塾と北里大学(学校法人北里研究所)は包括協定を結びました。両校の創立者の精神を生かして、多角的な連携を進めていきたいと考えています。
 

高見:興味深い試みですね。具体化された取り組みはあるんですか。
 

北川:すでに、いくつかのプロジェクトが立ち上がっています。例えば医療の分野でも病院間の連携を、さらに強化していきたい。現在も人的交流などは活発で、北里研究所病院の院長は慶應OBですし、慶應出身の医師が多数勤めています。そのほか、慶應にはない獣医学、海洋生物科学などの学部との交流や新たな共同研究、北里大学にはない人文科学系学部教育の機会提供といった教育・研究連携も視野に入れています。
 

高見:福澤先生は津田梅子先生とも面識はあったんですか。
 

北川:1月10日は福澤先生の誕生日で、毎年、誕生記念会を開催しています。実は本年の誕生記念会のゲストスピーカーは津田塾大学学長の高橋裕子先生で、ご講演の中で福澤先生と津田先生の共通点として海を渡って新しい社会を切り拓いたことについてお話しいただきました。若い学生たちに対して創立者の志を継いで海外に雄飛し、チャンスを広げてほしいと呼びかける、すばらしい講演でした。
 

高見:長くお札の主役を務められてきた福澤先生に代わり、2024年から慶應に関係の深い北里先生、津田先生がお札の顔になるわけです。新しい「慶應の時代」の到来を予感させますね。
 

ともかく楽しかった慶應義塾普通部、慶應義塾高校時代

 
北川:高見先生も私も慶應義塾普通部、慶應義塾高校の出身です。普通部、高校時代の思い出は何かございますか。
 
高見:普通部は1学年250名で、3年間クラス変更がありません。だから、ともかく楽しかった。特に昼休みのソフトボールが楽しみで、昼休み直前になると、いち早くグラウンドに出て陣地をとるため、授業どころではありませんでした。今でも親しい友人が多く、勉強会と称して飲み会を2か月に1回程度続けています。そこから、また人間関係が広がっていきました。高校は1学年800名。18クラスあり、毎年クラス替えが行われますから、普通部の時代と比べると濃厚な人間関係は生まれにくかったですね。

 
北川:先生の中学・高校時代は昭和30年代ですね。当時、一世を風靡していたロカビリーがお好きだったそうですね。

 
高見:そう。生意気な中学生でね。仲間と時折、渋谷のジャズ喫茶へ繰り出しました。ACB(アシベ)でミッキー・カーチスや山下敬二郎、平尾昌章などが歌っていたのを思い出します。
 
 

 
北川:私の中学・高校時代は昭和50年代。普通部は担任は替わるんですが、クラスメートは、ずっと一緒。ですから、今も親しい友人は普通部の同級生が多いんです。皆が各分野で活躍しており、前法学部長の岩谷十郎君もクラスメートで、現在常任理事として一緒に仕事をしています。音楽家の千住明君、歌舞伎の中村扇雀さんも同じクラスでした。

 
高見:高校は水球部ですよね。
 
北川:そうです。本当に朝から晩まで泳いでいました。朝練をして授業に出て、昼休みはプールで立ち泳ぎの練習、夕方から本当の練習が始まるという毎日でした。シーズン中は、ずっと水の中にいる生活でした。中1のころまでは小柄で、ひ弱な感じだったんですが、中2ころから背が伸びて体力がつき、高校では激しいスポーツを選びました。そのときに培った体力に今でも助けられています。

 
高見:北川先生はスポーツ万能です。ゴルフに行ったときも、キャディさんから「こんなに遠くまで飛ばす人は今まで見たことがない」と言われていました。
 

南米に50日間派遣され、アマゾンの村の医療現場を体験した

 
高見:北川先生が外科医を目指されたきっかけは何ですか。
 
北川:3つほどきっかけがあります。ひとつは小さいころは、ひ弱で、小児ぜんそく、アトピー性皮膚炎に悩まされました。小児ぜんそくの発作で小児科に担ぎ込まれて酸素吸入を受けたこともありました。ですから、私にとって医師は苦しい場面で救ってくれるヒーロー的な存在でした。
 

 ふたつ目のきっかけは高校時代、祖母が亡くなった時の体験、感情です。登山に連れて行ってくれたり、祖母が詠んだ俳句の情景を私が絵に描いたり、身近で面倒を見てくれていた祖母が突然血を吐いて入院しました。結局診断がつかず、闘病の末亡くなったのですが、剖検の結果は大動脈瘤の穿通でした。今なら手術あるいは血管内治療で治る可能性のある病気です。医療の限界を感じる複雑な感情の中で、医療の進歩に貢献したいという思いが強くなりました。
 

 もう一つは大学5年生のときから国際医学研究会という学生団体に所属し、6年生のときに南米に50日間派遣されたことです。ブラジル、ボリビアなど南米諸国を巡るのですが、アマゾンの村に1週間くらい滞在しました。村に1人しかいない日系ブラジル人の医師について、夜も当直しながら、いろいろな医療現場を見る体験をしました。その医師は産婦人科が専門でしたが、手術もできるし、内科的治療にも造詣が深く、マラリア、リーシュマニアなど熱帯病の治療もできるジェネラリストでした。その姿を見ていて、医師が自分しかいない環境で医療を担っていくには、自分で手を動かす「手術」という技術が必須であることを痛感し、外科の道へ進むことを決めました。
 
高見:北川先生ご自身はあまり言われないのですが、北川先生はこれだけ多方面で活躍していたにもかかわらず、医学部の総代だったのですよ。がり勉でなく成績一番というのは尊敬に値しますよね。
 
北川:高見先生が甲状腺の分野へ進まれたきっかけは何でしょうか。
 
高見:1977年、米国に留学し、79年11月に慶應の外科に戻りました。肝胆膵のグループに属していたんですが、帝京大学から声がかかりました。ただ、帝京では肝胆膵は担当できないので、以前から興味を持っていた内分泌外科、つまり甲状腺・副甲状腺外科に的をしぼりました。
 

 甲状腺を勉強するために、その分野の専門病院として有名な伊藤病院の門をたたきました。当時、甲状腺の第一人者である伊藤國彦先生が院長をなさっていました。慶應OBです。週1回は伊藤病院に行き、ひたすら臨床と研究に従事したものです。伊藤病院は帝京と自宅の中間にあり、帰宅途中に寄ってカルテを見せてもらうなど、いろいろな情報を懸命にインプットしました。伊藤病院では現在も学術顧問を務めています。
 

1986年、帝京大学に奉職し、翌年に助教授、1991年、教授となりました。帝京大学で甲状腺・副甲状腺の疾患を主体とする内分泌外科をつくり、そこに専心することにいたしました。当時、医学部には6人の教授がいましたが、全員、東京大学卒。東大以外の出身者が教授になったのは私が初めてでした。とにかく内分泌が全然なかった時代ですから、「帝京大学に内分泌あり」と知らしめたいと一生懸命取り組みました。
 
北川:先生の奮闘努力が大きく花開きましたね。帝京大の内分泌の名前が知られるようになるとともに、「内分泌、甲状腺に高見あり」と先生の名声も高まり、多くの学会で理事長、理事を務められました。
 
高見:そうですね。理事長だけを申しますと、内分泌外科学会は11年間、理事長を務めました。甲状腺外科学会は元々は研究会で、その代表世話人として学会への昇格も果たし、学会理事長を6年させていただきました。甲状腺学会は内科の学会ですが、これも6年務めました。
 

後輩の育成に尋常ではない情熱を傾けた

 
北川:高見先生は公私ともに、いろいろな局面で、よき方向へ導いてくださいました。先生の多面的な活躍の中で、特に印象に残っていることがあります。それは後進の育成に尋常ではない情熱を傾けられていたことです。帝京大学で外科主任教授として活躍されていたころ、「これぞ」と見込んだ若手を誘い、よく会食の場を設けられていました。そのときは私も呼んでいただいて、3人で食事をする機会を何度となく持っていただきました。若手の先生のいろいろな質問に丁寧に答えられ、重要な、かつ核心をついたアドバイスをなさっていました。中には簡単には答えの出ない、生き方や人生観に及ぶ話もありました。私に「リーダーシップのあり方」を教えてくださったのも高見先生です。先生の後進を育てたいという気持ちをひしひしと感じ、自分もそうありたいと考えてきました。
 

 
 
高見:若手の先生と2人だけだと相手がかしこまってしまい、なかなか話がはずまないからね。北川先生の「話を引き出す力」を大いに利用させていただきました。先生のおかげで、和気あいあいと懇談することができた。こちらこそ、本当にありがとうございます。
 
北川:いえいえ、先生には人生の節目で、私が苦悩しているとき、判断に迷ったとき、温かな励ましと助言をいただきました。賛否両論が渦巻く中でも「決めたら迷うな。自分の判断を信じて進め」と力強く激励していただいた。先生の後押しに、自分も後輩たちのためにできることに全力を注がなくてはならないという使命感と勇気が湧いてきました。
 

留学中、日本から定期的に日本食を送ってくださった

 
高見:それはうれしい。北川先生に最初にお会いしたときのことを今でも覚えています。済生会神奈川県病院に私の親族が入院しており、先輩である山本修三先生のご推薦で担当医をしてくださったのが北川先生でした。フレッシュで初々しい印象でしたが、話の端々から技量の高さと温かい人柄が伺えました。そこから、ご縁が始まったんですね。
 
北川:その後、ことあるごとに温かいお心配りをいただきました。1993年、カナダに留学した私に日本から定期的に日本食を送ってくださいました。翌1994年、米国ニューオリンズで開催された米国外科学会に参加させていただいた際はミシシッピー河のほとりのレストランで食事する機会を持っていただいた。貧乏留学生にとっては普段味わうことができない、たいへんに美味しい料理とお酒でした。
 

 それ以上に刺激的だったのは先生がAcademic surgeon(外科医)として、どのように歩んでこられたか、そして何を目指しているかという、お話でした。
 

 先生は若き日に米国屈指の名門、ベイラー医科大学、MDアンダーソンがんセンターに留学され、輝かしい臨床研究業績を残されました。帰国後も全身機能と直結した内分泌分野の臨床・研究に取り組まれている40歳台後半の高見先生のまなざしやお姿が今でも目の中に焼き付いております。
 
高見:北川先生は謙虚です。帝京大学教授を退任した際、2011年3月5日、退任パーティーを開催しました。北川先生が率先して動いてくださって、大勢の方が参加される盛大なものになりました。
 
北川:800 名以上の方が参加されました。
 
高見:当日はカメラ3台を入れてビデオ撮影をしたんですが、撮影後の映像を見ても北川先生の姿が見えない。1メートル84センチありますから、映っていてもいいはずですが、どこを探しても見えない。黒衣役に徹して、うしろのほうで若手の相手をされていたんですね。
 

友人との絆、先輩・後輩の絆が慶應義塾の一番の強み

 
高見:私が思うに慶應の魅力は友人との絆、先輩・後輩の絆ですね。私は中学から入りましたから、大学から入って来た方とは違うかもしれませんが、総合大学なので友人が各分野にいる。文系が多いのですが、卒業後60年経っても、つきあいが続いています。同期だけではなく、北川先生のように大勢の先輩や後輩とも交流があります。
 
北川:そうですね。先生がおっしゃるように、縦も横もネットワークがあり、非常に絆が深いですね。実は京都慶應倶楽部の会があり、今日も京都から帰ってきました。慶應の卒業生のつながりは国内はもちろん、海外にもあります。そうしたつながりの中で後輩にチャンスを与えようとか、あるいは困っている人がいたら何とかしてあげようといったことが自然にできる雰囲気がある。そうした文化がありますね。福澤先生が「人間」と書いて「ジンカン」と読む、人間交際という言葉を使われましたが、人と人の深いつながりの中で社会をつくっていくという、そうした校風が建学のころからあったのではないかと考えています。
 

2023年秋、麻布台ヒルズに人間ドッグと予防医療に重点を置いた予防医療センターを開設

 
高見:北川先生は現在、慶應義塾の常任理事を務めておられます。北川先生のほうが、ちょっと年上ですが、伊藤公平塾長と仲がよく、伊藤塾長を、よく支えておられると思います。
 

 ちょっと話は変わりますが、現在、大学には医学部のほか、看護医療学部、薬学部と医学系の学部が3学部あり、歯学部を増やそうかという話も聞こえてきます。理工系の学部もあり、そうした他学部との連携、さきほど話がありました北里大学との連携など、さまざまな未来構想があると思います。読者のために、そのへんの未来構想の一端を語っていただけませんか。
 

 
 
北川:伊藤塾長は、いい意味での危機感を持っている方です。2022年は『学問のすゝめ』150周年でしたが、福澤先生が慶應義塾を創設されたころ、全国各地から日本を新しく創りかえるんだという大志に満ちた若者が集まってきて、社会全体を動かしていました。当時のように現状を大きく打破するような慶應義塾でありたいというのが伊藤塾長の考えです。
 

 研究面では2022年にWPI(ワールド・プレミア・インスティテュート)という、世界に通じる特色のある研究機関として、私立大学で初めて認定していただきました。
 臨床面でも、この5年間、AIホスピタルのモデル病院として内閣府から認定され、さまざまなプロジェクトに取り組んできました。データサイエンスやデジタル技術を活用し、いろいろなデバイスを患者さんに持っていただいて、患者さんのバイタルデータを在宅・日常生活の中から拾い、それを健康につなげていくという取り組みも行なっています。
 

 そうした構想を実現するためには慶應の総合力が非常に重要です。そのために2023年秋、現在信濃町にある予防医療センターが麻布台ヒルズに移転し、その機能を大幅に拡張します。人間ドックを主体とした健診部門だけでなく、より健康なライフスタイルを支えるいろいろな研究講座を立ち上げます。例えば食生活と健康をより深く研究する講座、メンタルヘルスを重視してうつ病など再発しやすい疾患の見守りなどにも取り組んで参ります。高見先生が仰ったように、医学部だけではなく、理工学部や看護医療学部、薬学部、人文科学系学部が連携して、新しいウェルビーイング社会を慶應義塾が先導していきたいと考えています。
 

 
北川雄光 プロフィール

 
高見 博 プロフィール

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