【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】001 中山 若樹(脳神経外科)第3回

【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】001 中山 若樹(脳神経外科)第3回

各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。 
 
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
1人目は脳動脈瘤や脳動静脈奇形などの脳血管障害におけるプロフェッショナル 中山若樹先生(柏葉脳神経外科病院 常務理事・副院長/高度脳血管病センター長)です。
8回にわたるシリーズの3回目は「医師になってからの軌跡(前編)」になります。

第3回:カルフォルニアで感銘を受けた「中田ワールド」
釧路での研修医スタート
—研修医時代のエピソードを教えてください。
最初に出たのが釧路でした。 当時の研修医って、今みたいな、初期研修医制度ってないですから。卒業1年目で脳外科医といいながら、なんもわかんない若造で、仕事も余暇も、とにかくがむしゃらでした。
総合病院だったので、他の診療科の先生たち、看護師さんや技師さんたちも交えて、すごく仲がいい病院だったんで、普通にみんなで飲み会があったり、温泉旅行があったりで飛び回ってました。
でも脳外科ですから、臨時手術はあるし、当直もあるしで、寝る間を惜しんで遊んでたかもしれません(笑)。
自分でそうやって不真面目なのに、そもそも血管のバイパスの手術を見て憧れて、脳外科に入ってますから。こういうのができるようになりたいって思いだけは強くあるんですね。あるけれども、それは遠い将来のイメージ、その日その日を全力で楽しく過ごしていました。
研修医時代。研修先病院の医局デスクにて。
研修医時代。研修先病院の医局デスクにて。
寶金先生から「カリフォルニアに行かないか」
—そこからカリフォルニアへ留学されます
当時はまだ大学院っていう発想があまりなくて、 他の内科には大学院が結構あったんですが、脳外科では大学院生っていうカリキュラムをあまり活用していなく、これからやっていこうという過渡期だったんですね。
そんな中、阿部弘先生(当時の教授)から大学院を勧められ入学しました。でも入ったと言っても普通に臨床研修医をしていました。そして、卒業後の3年目の時にですね、寳金清博先生(当時の医局長、講師)から「カルフォルニアに行かないか」と言われ、カルフォルニア大学デービス校神経科学に移りました。
カルフォルニア大学デービス校のMR研究棟。
カルフォルニア大学デービス校のMR研究棟。
いつもここでMR(磁気共鳴法)の実験をしていた。
カルフォルニア大学デービス校神経科学には中田力先生が教授としていらっしゃって、中田先生は元々東大出なんですけど、もう卒業してすぐ、日本じゃダメだって言ってアメリカに行ってドクターをやっていた方です。
そこの日本人留学生の第1号が寳金先生で、その後、飛驒一利先生(麻生脳神経外科病院 院長)、松澤等先生(柏葉脳神経外科病院 先端医療研究センター長)と続き、その次が僕でした。
なぜか研修医の僕だったのですが、でもここで中田先生と知り合い、中田先生の門下生である歴代の留学生の先輩たち、すなわち中田ファミリーの一員に加えていただいたことは、その後の自分に非常に大きな力をもたらしてくれました。この機会を与えてくださった寳金先生と、当時の教授の阿部弘先生にはすごく感謝しています。
カルフォルニア大学デービス校の研究室にて、公私ともにお世話になった技師さんとともに。
カルフォルニア大学デービス校の研究室にて、公私ともにお世話になった技師さんとともに。
手術とは全く別世界を知った中田先生との2年間
—中田力先生との日々はいかがだったのでしょうか。
この勉強嫌いな僕があんな賢い人の元に行くってのは非常にまずいことだと思っていました(笑)。
この研究室はMR(磁気共鳴法)を中心に、基礎的な研究が行われているのですが、手術とは全く別世界で、驚きの嵐でしたよね。もう話している内容は全然わかんないぐらいでしたけど。
中田先生は物理学の大家のような人であって、当時松澤先生もいて、中田先生との二人の会話が全然わかんなくて、家に帰って一生懸命調べたりしてました。
松澤先生とは最初の4か月間ほどこの中田先生研究室でご一緒させていただいたんですけど、素人の僕に本当に懇切丁寧にたくさんのことを教えていただきました。公私ともによく面倒みていただいて、松澤先生が日本に帰国されたあとも、離れた場所にいながらもずっとやり取りを続けさせていただいていました。後に述べますけど、巡り巡っていまの職場で一緒にいるんですが、本当に人の繋がりって素敵だなって思いますね。
カルフォルニアの果樹園でプラム狩り。
カルフォルニアの果樹園でプラム狩り。
その後も中田先生とカリフォルニアでMRでの新しい解析法や画像法を開拓する研究をしながら1年間ほど過ごしたとき、中田先生がカリフォルニア大学教授と兼任で新潟大学脳研究所に講座を開設して、日本初の3T(テスラ)のMR装置が研究用として新潟大学に入ることになったんです。そのときカリフォルニアの研究室で中田先生に、 「どうする、中山くん、ここに残る?、一緒に新潟行く?」って言われて、「いやいや、一緒に連れてってください!」って言って、中田先生と一緒に新潟大学の研究所(新潟大学脳研究所)に移りました。 そうしてカリフォルニアと新潟での研究生活がそのまま大学院のテーマになりました。
新潟大学で研究用3T-MR施設とともに開設された中田先生の研究室は、脳機能解析学という名前の講座です(現在の統合脳機能研究センター)。ここでも多くの先生がたにお世話になりましたけど、とくに藤井幸彦先生には本当に良くしていただきました。藤井先生はその後、新潟大学脳神経外科の教授になられるんですけど(現在は退任されて新潟県済生会特別顧問)、このときはよく二人で3T-MR施設に籠って、まさに手探りで試行錯誤の繰り返し、中田先生の教えをいただきながらいろいろなことに挑戦していました。
この新潟での研究生活でも、中田先生の知識と物事を解明するお姿には驚愕するばかりでした。例えば、中田先生が夜中にバーンと部屋にいきなり入ってきて「中山くん、わかったよ。脳の構造はわかったよ。これね、宇宙で全部説明できるんだよ。」と。
また、ある日は「わかったわかった。どうして脳がこういう構図か。これ全部ね、哲学で説明できるんだよな」など言われて。。。
それは比喩表現ではなくて、論理的な話なんですね。実際に科学的数学的に何時間も説明して語ってくださるんです。
でも全然話がわかんない、それぐらいすごい人でした。
中田先生を囲んで、恩師の阿部弘・北海道大学名誉教授とともに。
中田先生(中央)を囲んで、恩師の阿部弘・北海道大学名誉教授(右)とともに。
こういう知的で多量な知識を要する、本当に雲の上のような別世界があるんだなって知ったのがここでしたね。
たった2年間だけなんです。カルフォルニア大学と新潟大学脳研究所で中田先生とご一緒してた2年間だけなんですけど、手術とは全く別世界の、でも世の中を変えるような、こういうふうに全く新たに物を生み出す世界ってのは本当にあるんだなって。
主に物理学的なことなんですけど、でも、すぐに体裁や形になる結果を急ぐのではなくて、とにかく真理を追い求める。ごまかしや妥協は一切なく、なぜなのか、どうなっているのか、その真実をひたすら掘り下げていく。そういう世界を知ったのは、その後の全く畑違いの外科医療の場において、ずっと自分の根底に流れる大きな力になってると思います。
中田先生を囲んで、中田門下生の先輩先生たちとともに。
中田先生(中央)を囲んで、中田門下生の先輩先生たちとともに。
左から鈴木雄治先生(新潟大学脳研究所)、中山、藤井幸彦先生(新潟県済生会支部 特別顧問)、寳金清博先生(北海道大学総長)、松澤等先生(柏葉脳神経外科)、鈴木伸幸先生(すずきクリニック)
—4回目は「医師になってからの軌跡(後編)」になります。
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