【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】002 大圃 研(消化管内科)第1回

【名医からのメッセージ~トップランナーが語る半生】002 大圃 研(消化器内科)第1回

各領域のプロフェッショナルである「名医」へ、その生い立ち、医師になったきっかけ、実績、そして未来へのメッセージをインタビュー。 
 
一般生活者へ最新医療を啓蒙、医師へのメンタルブロック解消により病院や医師選びの選択肢の拡大を実現し、個々にとっての最適な医療の受診につなげることを目的にしています。
2人目は消化器内視鏡治療におけるプロフェッショナル 大圃研先生(NTT東日本関東病院 消化管内科部長・内視鏡部部長)です。
8回にわたるシリーズの1回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(前編)」になります。

第1回:東京、茨城、そして栃木での青春時代
東京、茨城で過ごした少年期
—お生まれはどちらになりますか
春日部です。当時、父親が埼玉の病院に勤務していて、埼玉県の春日部生まれになります。その後、住まいは東京でしたのでそのまま幼稚園までは東京です。そこから父が祖父の病院を継ぐことになり、小学校から茨城で育ちました。生まれは春日部、実家は茨城になります。
幼少期
幼少期
—子どもの頃に熱中していたことはありますか
小学校では水泳です。東京に住んでいた頃からスイミングスクールに通っており、茨城に移ってからも続けていました。当時は今ほどスイミングスクールがたくさんあるわけでもなく、母親が車で片道4,50分かけて送り迎えをしてくれていました。
選手コースに入って本格的にやっていて、競技大会にも出ていましたが、これも送り迎えしてくれた母親のお蔭です。
あとは、月並みですが、ピアノをやらされていました(笑)。
ブラスバンド部にも入っていて、トランペットを吹いていました。でも、人並みにやっていただけです。
いろんなことをある程度は経験したほうが良いということで始めただけなので、音楽は小学校でやめました。まぁ、好きじゃなかったですね。
水泳も送り迎えの車の中で用意してくれたお弁当を食べ、少しでも仮眠をとるという生活を小学生の時からしていました。時間を考えると中学生で続けるのは厳しく、水泳選手になるんじゃなければこれ以上やってもしょうがない、との話にもなり、小学生で引退しました。でも趣味で再開したのは水泳です。50mを30秒切るくらいではまだ泳げます。
—中学時代はいかがでしたか
軟式テニス部に入っていました。当時は土日も部活に行く時代だったので、部活に振り回されていましたね。最後はキャプテンになりましたが、目立って統率をとろうというタイプではなかったです。
当時は「ビーバップハイスクール」が全盛の頃で、地方ということもあり、朝学校へ行くと窓ガラスが割れていたり、玄関でタバコを吸っている生徒がいたり、バイクが走ってきたりと、とにかく荒れていて、そういう生徒が中心になっていました。
もちろん、その波にのっていくわけでもなく、東京からの転校生でしたしやはり浮くというか、仲良しにはなれなかったですね。壁がありました。
なので、あまり楽しくなかったですね(笑)
自由な校風で「仲間」と出会う
—県立栃木高校に進まれます
公立の男子校(栃木高校)に進みました。受験を経ているのである程度価値観が近い人も増えますし、人の邪魔をしたり、悪さをする人はいなくなり、ここからは快適でした。
面白い人もいっぱいいましたね。国語は0点、数学は100点というように数学だけが好きな人とか、かなり偏っていながらも個性的でした。
男子校ということもあって、授業中は上半身裸で授業受けていたり、トランクス1枚で廊下を歩いていることや、水を汲んだバケツを机の下において足をつけながら授業を受けるとか、普通にやっていました。私立高校みたいに設備が良いわけじゃないけど、そんな中で勉学に励みなさい、学びなさいということを地で行く感じでした。
—部活や勉強はいかがでしたか
部活には入っていなかったです。越境入学で、栃木の一番端のローカル線と茨城の一番端のローカル線の恐ろしい乗り継ぎダイヤでしたから。通学に1時間以上ゆうにかかります。だから部活に入るのはとても無理でした。
ただ、通学中に女の子に声を掛けられることもあったので、意味のある1時間でしたね(笑)。
医学部はやはり勉強しないと入れないので、勉強はそれなりにやっていましたが、今の人たちみたいに塾には通わず、学校の教科書でやることだけをやっていました。
でも、公立高だからでしょうか、先取りとかはしていないので、受験までに学校の教科書全部終わらないんですね、全然間に合わないんです。だから全分野の勉強は終わらないで受験しています。
—医学部に進まれる方は多かったのでしょうか
成績が良いから医学部に進むという感じはなく、そんなにたくさんはいませんでした。男子校で数学が大好きな人が多かったので、その成績なら東京工業大学に進む人が多かったです。いい意味で変なやつらですから(笑)。
そして、先生として栃木高校に帰ってくる人も多いです。この高校が好きで母校で教鞭をとりたい、そう思って帰ってきてくれています。
今の人たちって、あんまり考えないで、成績が良いのなら医学部に行くとか、医学部の上位から数えていってどこの学校へ行こうって感じなので、そこには違和感を抱きますね。
—2回目は「生い立ち、そして医師を目指したきっかけ(中編)」になります。
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